御座を語る人たちシリーズ(井上増美)


浜島に在住した郷土史家
「志摩郷土会」メンバー明治33年
機関紙『郷土志摩』第34号(s41年)に「御座文化財見学記」を掲載



御座文化財見学会


  旧七月十四目、朝は寺にて施餓鬼、後に墓参。午後三時頃再び寺詣り。 夕 昭和四十年十一月二十八日、日程が急にきまったため、連絡不十分であったり、すでに予定のある方々は変更がつかなかったりで、レギュラーの中にも欠ける人のあったのは、かえすがえす申し訳けない次第であった。
 しかし、その割には参加者も多く、中村精弐・上村角兵衛・伊藤保・木下伝之助・長田民二・井上増美・佐々木武門・山崎英二・西隆銀・水産校郷土部に、志摩町文化財保護委員会のメンバー・浦口楠一・山本栄吉・中村庄三郎・伊藤治・世古一雄・井上春平に、西世古教育長、他に会員外・竹内弁重郎・岩城保平・西世古まさ・竹内こはつ・山本光男・山畑政子・井上よし子、土地の案内者として森田清・山口弥六・竹内勇吉・山川藤四郎(敬称略)。
 好天気に恵まれ、盛大な見学会になったのは何より。午前九時御座小学校に集合。校長室に会議机をならべて、数多の出土土器、及び有名な鹿角装刀子等を陳列。町教育委員会の方で、準備萬端手配をととのえて下さってあったので、時間がやや遅れたにもかかわらず、整然たる進行を示した。
 町教委で印刷して下さった、「御座文化財資料」により、西世古教育長より精細な説明があり、終って佐々木武門・伊藤保両氏について、鹿角装刀子・出器類の説明を聞く。出土状況については、地元の出席者が細かく話を相補って下さったので、大変まとまりのいい説明会であった。
 鹿角装刀子は、腐蝕破損が甚しく、四十年十一月一日、東京博物館のあっせんて国宝修理人が修理をし、硝子蓋のケースに納めて保存するようになった。四・五世紀頃のもので、把頭や鞘ロ等の鹿の角の部に、直線と弧線とを組合せた美事な装飾模様が刻まれている。それが見所だという。鉄器時代の初期のその刃部は、どんな鉄で出来ているか興味あることなので、ちよっと尋ねてみたが、やばり鍛えてあるとのことであった。
 刀子と共に、白浜貝塚から出土した土器類数多、弥生前期・中期・及び土師器、中で特に変ったものては、彩色を施した宮廷土器と称するものが、珍らしいものであった。色ははげてはいたが、殆んど完全形で残されてにいた。
 学校を出て、出土地白浜へ。貝塚のあったあたりは護岸工事で堤防が築かれ、原形は全くなくなっているが、案内の方々の発見当時の話は興味深いものがあった。
 貝塚から白浜海水浴場の東端へかけて「字地蔵」と呼び、もと地蔵堂があったところという。少し奥まったところに、小さな沼があり、五郎どんの池という。その親しみをこめた池の名には、人の好い年輩の主人公、その好人物なるが故に起した悲劇というようなものを想像させる。それについていろいろ聞いてみたが、名前の由来についての伝説は聞けず、昔刑場があって、処刑に使った刀をこの池で洗つたので、村民からも気味悪い眼で見られているとか。サンシヨウ魚の南限界に当る生物学上の重要線にあるとの事で、探つてみたが、それらしいものは見られず、沈んだ朽葉が僅かに物わらうように動くのみであった。
 こんな所に、何故処刑場があったのか。一体、何人を処刑したのか。鈴ヶ森とか、小塚原、六粂河原というような古来の有名な処刑場は、何れも人口の緻密な、政争のはげしい江戸や、京都の近郊にあり、遺体の始末にも都合のいい場所であった。
 白浜附近には、昔は人家があったという遺跡もあるが、かつてどんなに殷盛な村落が発達していたとしても、その戸数は、現在の御座村落程こみあっていたとも思えないし、魚や貝や、豊かな海の天然資源は無尽蔵だし、平和な幸福な生活が想像されるのだが………、こんな所で、大盗が発生するとか、むほん人が出るとかは考えられないし、藩主に対して土一揆を起したとも聞かない。なにか伝説を裏づけるような史実があるのか、それらについては何も聞ぎ出せなかった。
 白浜の見学を終えて、神社に至る。急な石段を登りつめた杜叢は、先年の伊勢湾台風でひどく傷めつけられ、古い喬木が半は生き、半は樹骨を白く露していた。
 神社の背後の壁のあたりに貝塚があり、出土品もあったと聞いたが、ここへ来た第一の目的は、志摩町文化財に指定された双口の壺というのを見せてもらうためであった。しかし社務所のどこをさがしても、それらしいものは見当らない。目録を見ると、キリゾタン制札というのもあって、かつて小学校で見せてもらったこともあったが、それも「学校にある筈だ」「いや支所だ」といって、とうとう行方がわからないままにすんでしまった。志摩町文化財保護委員会という立派な組織をもっている志摩町で、いったいこれはどうした事か、………いや、さればこそ西世古教育長が、本日を機会にわざわざ委員会を召集したのであろう。
 潮音寺において休息、昼食、会長からの種々の報告、連絡事項があり、終ってここのの本尊、大日如来像を拝す。
 潮音寺の大日如来像は、市丸さんの写真で見てその均衡のとれた姿体と、志摩の他の仏像に見られない人問臭味、愛情を秘めたような面相が、いたく私の興味を引いていたので、大きな期待をかけていたが、実体は想像していたよりもはるかに小さく、その表情も写真のようには汲みとれなかった。しかし、小さいながらいい作品、近代的な感覚なもった像のように私には思えた。
 午后、不動院を見学する。不動院は、潮音寺と特別関係になっているそうだが、潮音寺の本尊が、他の禅宗寺と違って大日如来であることは、弘法大師伝説をもつ不動院との関係を、すぐ思わせる。
 不動院は、全く伝説の中から出てきた寺である。学問の容喙を許さない秘密境である。秘仏としての不動尊は、自然石に弘法大師が刻んだとも、炭か墨に爪で刻んだとも言われていて、誰もその姿を拝した者がない。信仰のためには、これは重大なことかもしれない。仏体が一度帳をはね上けられたら、歴史学者や古代美術研究家は、「これは弘法大師の作でばない、時代が新しい」とか、「出来がまずい」とか、言い出すかもしれない。信仰のためではなく、知りたいという気持で来たわれわれには、そっけない対象ではある、
 ここで見るべきものは、その庭園である。挟いながら、実によくまとまっている。そして又、変化にも富んでいる、神秘的なふん囲気をかもすに実によく行きとゞいた林相でもある。堂の背後においた梵字石も、出処やいわれは捜る由もないが、秘仏に対する信仰の一部を露出しているようで、興味深い。
 最後に石仏を見せてもらった。入口に鳥居を持ったまったくの民間信仰だ、仏だとか、神だとかいう戸籍を超越しているのがおもしろくもある。
 石仏というのは、水の中に沈んだ自然岩の一塊で、そばに立っている石柱は、後に目じるしに立てたものだそうだが、何時の間にかその石柱が石仏と問違えられろようになり、写真やなんかで他に紹介されるのも、この石柱が写し出ざれているという。潮につかってにいるので、下(しも)の病に霊験がある、と言うのだが……、信仰の由来や、伝説は、どこでも大同小異で、たわいないものである。
                  (会員・浜島町在住)

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